はじめに
幼い頃から私は自分の中に何かを感じていた。それが一体何なのか、当時はわからなかった。言葉で説明できないその存在に、ただ突き動かされていた。離れたかった、それまでの環境から。知りたかった、それが何なのかを。目にしたかった、自分が想像もできない、考えも及ばない、しかしこの世界のどこかに確かに存在するであろう、その「答え」を。
答えを探すために、日本で映画を学んだ。しかし足りなかった、何かが。そして私は、ニューヨークへの片道チケットを握って日本を離れた。単身で。誰の知り合いもいなかった。伝手もなかった。正直、ニューヨークがどこにあるかさえ知らなかった。
不安。孤独。より一層、雲がかっていく私の中のあの存在。自分自身への絶望。
たくさんの人たちに出会った。言葉はわからなかった。そこである人に渡された、Jack Kerouacの『On the Road』という一冊の本。
思想的背景「ビートニック」
私の映画制作における思想的な基盤は、ビートニックの精神にあります。
『On the Road』の一節
“because the only people for me are the mad ones, the ones who are mad to live, mad to talk, mad to be saved, desirous of everything at the same time”
この言葉は、私の中で何かが弾けるような感覚を呼び起こしました。
それは、幼い頃から自分の中で言語化できずにいた衝動が、初めて言葉として結晶化された瞬間でした。
その後、友人とシカゴからニューヨークまでアメリカを車で横断する旅に出た際、メインロードを外れた街道や脇道を走りながら感じた解放感や高揚感は、Kerouacが書いた「時間は止まり、過去も未来もなく、ただ「今」だけが純粋に存在し、その瞬間のために生きること、それ自体が目的である」という世界そのものでした。
夜明けのガソリンスタンド、見知らぬ街のダイナー、車窓から見える広大な風景、街灯の無い田舎道を馬車を使って移動するアーミッシュ。それらすべてが、私にとって映画のワンシーンのように輝いて見えました。
そうした経験から、ビートニックの精神は私自身の行動指針や世界の捉え方に影響を与え、私の作品制作における指針となりました。
ビートニックが重視したのは、理性や言語では捉えきれない、感覚そのものでした。ニューヨークでの日々やアメリカ国内の旅、そしてアフリカやアジアでの放浪で感じた解放感や、その瞬間の輝き。それは言葉にすることができず、しかし確かに存在する感覚でした。
こうした言葉にできない感覚を映画の中で取り扱い、観客が自身の中に既に持っている、しかし言語化されていない感覚や記憶を呼び覚まし、視聴後の現実的な人生に生かしてもらうことを目指しています。
私自身、異国での生活や旅の中で、私が当然だと思っていた善意や正しさが、実は外部から刷り込まれた価値観に基づくものであることに気づいた出来事を数多く体験してきました。
そして、私たち人間は、普段、自分が自由に考え、さまざまな選択を行なっていると信じていますが、その多くは社会や文化、周りの環境から無意識下に影響され、自分自身の意思、存在として錯覚して生きているのだと考えるに至りました。
私の映画では、登場人物たちもまた、こうした刷り込まれた価値観と向き合います。彼らは自分が信じていたものが揺らぐ瞬間を経験し、その不確実な状態の中で、彼ら自身の奥底にある内なる声に従い、自らの道を進んでいきます。
ビートニックの精神。固定概念からの解放、『成功』や『幸福』という定義への疑い。これらを、私は現代社会において映画を通して再構築したいと考えています。
そして、私が生まれ育った日本で培われた無常観。どんな選択をしても、宇宙は無常に移ろいでいく。すべてのものは変化し、やがて空へと還っていく。
この世界の捉え方が、ビートニックの精神と融合し、すべてが「空」へと還っていく世界観の中で、人間が内なる声に従い狂おしく生きる一瞬。その煌めきを、映像として捉えることを目指しています。
そして、私が作り出すさまざまな世界観で織りなす登場人物たちの物語を観た後、それまでとは少し違った視点で世界を眺めることができるようになる。そのような体験を作りたいと考えています。
映画観と美学
誰かと視線が交わった時、雨上がりの匂いを感じた時、ふとした時に過去の別れの情景が浮かんだ時。私たちは日々、無数の感覚を体験しています。ある研究によれば、人間は一日に約6000回もの思考を巡らせると言われています。しかし、そのほとんどは言葉にならないまま、記憶として認知される前に消えていきます。それでも、その瞬間は確かに存在し、私たちの奥底に何かを残しています。
私の映画では、登場人物たちがこうした「記憶になりそこねた感情」を体験する瞬間を捉えることで、観客が自身の中にある同じような感覚を呼び覚まします。
そして、登場人物たちは、記憶として認識している現実と、記憶になりそこねた感情が混在する意識の中に身を置きます。
何が実で何が虚なのか。現実とも夢ともつかない現実、真実と虚偽が入り混じる人の心、存在と幻の境界が溶け合う瞬間。
こうした「実」と「虚」が曖昧な世界観の中で、彼らは翻弄されていきます。
彼らは「生と死」「愛と裏切り」「真実と虚偽」あるいは「この世とあの世」など、「実」と「虚」の境界線が曖昧になった不確実な世界の中で、自らの選択を重ね、運命を切り開いていきます。
映画的影響とジャンルへの取り組み
こうした映画世界を形作る上で、私はさまざまな監督たちから影響を受けてきました。
Wong Kar-waiからは、登場人物の内なる思いと行動のすれ違い、そして物語全体をメタファーとして使う構成方法を学びました。
小津安二郎の定点撮影が生み出す無機質な視点と、台詞回しに潜む違和感は、私の映画における第三者の視点として引き継いでいます。
Howard Hawksの「赤ちゃん教育」が示した常識を超える自由さと型破りな展開、そして1940年代以前の映画が持つ人間の根源に迫る表現は、今も私の中で生きています。
その他、Fritz Lang、Ernst Lubitsch、山中貞雄、成瀬巳喜男、市川崑、鈴木清順、Eric Rohmer、John Cassavetes、Víctor Erice、Wim Wenders、Jim Jarmusch、Hal Hartley、Tran Anh Hung、岩井俊二、David Fincher、Christopher Guest、Darren Aronofsky、Jia Zhangke、Alejandro González Iñárritu、Andrew Bujalski、Ari Asterなど、多くの映画作家たちからも影響を受けてきました。
これらの監督たちに共通するのは、空虚さが根底にあり登場人物の執念から物語が展開していくこと、そして現実世界を映画というフィルターを通して表現したとき常識から逸脱していること、そして何より、登場人物たちが精一杯人生を謳歌していることです。
私は、こうした影響を受けながら、さまざまなジャンルで映画を作っていきたいと考えています。私の基本姿勢は、どのジャンルにおいても主人公は血の通った人間であり、「狂おしく生きる一瞬」が異なるシチュエーションで起きる、というものです。
ホラー、サスペンス、歴史物、コメディー。どのジャンルにおいても、ヒューマンドラマが基盤にあります。
幼い頃から感じていた、あの言葉にできない衝動。それが何なのか、今もまだ完全には答えが出ていません。ただ、私が続けてきたこの旅路で出会った「言葉にならない感覚」たちを映画として表現し続けていきます。
Yohei Koinuma 2026
